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富山地方裁判所 昭和38年(行)2号 判決

原告 佐藤楽好

被告 富山県知事

訴訟代理人 水野祐一 外七名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は原告の負担とする。

事実

原告訴訟代理人は、「被告が昭和三三年六月二〇日付でなした原告の引揚者給付金請求を却下する処分は、無効であることを確認する。訴訟費用は被告の負担とする」との判決を求め、その請求の原因として、次のように述べた。

(一)  原告は、昭和一三年四月ごろ中国に渡り、長期間大東亜省巡査として勤務し、昭和一九年八月より中国山海関領事館勤務となり、同所に生活の本拠を有していたが、昭和二〇年六月二二日一時帰国したところ、終戦のため再び中国に戻ることができなくなつたものである。

(二)  従つて、原告は、引揚者給付金等支給法第二条第一項第三号に定める「昭和二〇年八月一五日まで引続き六ケ月以上外地に生活の本拠を有していた者で、本邦に滞在中、終戦によつてその生活の本拠を有していた外地へ戻ることができなくなつたもの」に該当するので、同法に基き、昭和三二年一〇月一日福岡県を通じて被告に対し、詳細な認定資料を添付のうえ、引揚者給付金の請求手続をなした。

(三)  ところが、被告は、昭和三三年六月二〇日付をもつて、原告の右請求を却下する処分をなした。なお、原告は、被告の右却下処分を不服とし、厚生大臣に対して不服申立をなしたが、厚生大臣は昭和三七年六月一四日付をもつて、原告の不服申立を棄却する旨の裁決をなした。

(四)  しかしながら、被告の右却下処分は、以下の事由により無効である。すなわち、

(1)  原告は、昭和一三年四月ごろ中国に渡り、同一五年一月大東亜省巡査を拝命し、北京、保定、威海衛、柏各荘の各領事館勤務を経て、同一九年八月山海関領事館勤務となり、以後同所に居住していたものである。

(2)  ところで、原告は、保定領事館勤務中の昭和一六、七年ごろ、同所で芸妓をしていた中西春枝(当時二一、二才位)と懇意になり、結婚の約束をした。しかし、そのころ、警察官は芸妓等との婚姻を禁止されていたうえ、同女には多額の前借金(約三、〇〇〇円)があり、原告において直ちに右借財を返済する能力がなかつたこともあつて、双方婚姻の意思を有しながら、原告等は、正式の婚姻手続が出来ず、やむなく、人目を忍んで短期間の同棲を重ねるという状態を続け、その後、原告は威海衛、柏各荘へと転勤し、中西は天津に移住したが、原告等は、なお機会を作つては同宿し、不自由ながら事実上夫婦として生活を続けていた。

(3)  ところが、昭和一九年八月原告が山海関に移つてから、中西は、屡々原告の官舎を訪ねて、長期間滞在することが多くなつたため、近隣の人々から原告の妻のように見られるようになつて、このことが上司の知るところとなり、原告も中西もいろいろ嫌な思いをすることが多くなつたので、原告は、次第に警察官を辞職しようとの決意を固めるようになり(その間、原告は中西の借財を返済してやり、また、上司に何回も結婚許可方の依頼をしたが、すべて無駄であつた)、一方、長期間の中国居住により、現地の民間人のうちにも多くの知人を有していたので、民間会社の天津ドツクや当時中国、満州で勢力のあつた土建会社新島組の友人に交渉し、警察官辞職後の就職についても、一応の見通しをうるに至つた。

(4)  そこで、原告は、警察官を辞職して、前記中西と結婚し、現地の民間会社に勤めて、新しい生活に入ろうと決意するに至り、昭和二〇年五月辞職願を提出したところ、同年六月一七日付をもつて帰朝命令を受けたので、同年七月八日山海関を出発、帰国し、大東亜省に出頭したところ、同月三一日付をもつて辞職を承認せられた。

(5)  しかし、原告は、もともと、辞職を認められるにせよ、認められないにせよ、再び中国に帰るつもりであつたので、家財道具等はすべて中国に置き、簡単な手荷物だけの旅行者として、帰国したのであり、幸いに辞職を承認されたのであるから、直ちに中国に帰るべきであつたが、当時の戦局としては、再び中国に渡れば、何時帰国できるかわからない情勢にあり、長期の別れとなるかも知れなかつたため、勿論、旬日を出でず中国に渡る予定で、帰途郷里の富山市に居住する母親の許に立寄つた。

(6)  しかるに、戦局は、にわかに急転悪化し、ソ連の参戦等も加つたため、原告は、あらゆる中国渡航の手をつくしたのであるが、思うようにならず、昭和二〇年八月一五日の終戦となつて、原告の中国渡航は遂に不可能となつてしまつた。

(7)  以上のように、原告は、中国に生活の本拠を有していた者であり、帰朝命令によつて一時帰国したが、警察官辞職承認の有無にかかわりなく、中国で生活し、中国に骨を埋める決心であつたものであつて、本邦に滞在中、終戦により生活の本拠地たる中国に帰ることが出来なくなつたものであるから、明らかに引揚者給付金等支給法第二条第一項第三号の該当者である。

(8)  従つて、前記原告の引揚者給付金の請求を却下した被告の処分は、明かに誤認であり、その瑕疵は、重大であるのみならず、原告と中西との同棲、婚姻約束の事実、家財道具を中国に置いて来ていること、就職先が具体化していたこと、並びに終戦のため帰国できなくなつたこと等の客観的な事実に照らし、明白な瑕疵があるといわねばならない。

(五)  よつて、原告は、被告に対し、右引揚者給付金支払請求却下処分の無効確認を求めるため、本訴請求に及んだ。

被告指定代理人は、主文同旨の判決を求め、答弁として、次のように述べた。

(一)  原告が終戦前大東亜省巡査として、山海関領事館警察署に勤務し、帰朝命令により終戦前に本邦に帰国、退職したこと、原告が被告に対し、引揚者給付金等支給法第三条所定の請求をなし、被告が昭和三三年六月二〇日付で、原告の右請求を却下する処分をなしたこと、原告がこれに対して厚生大臣に不服申立をなし、厚生大臣が昭和三七年六月一四日付で、原告の右不服申立を棄却する旨の裁決をなしたことは認めるが、その余の事実は争う。

(二)  引揚者給付金等支給法による給付金は、同法第二条により明らかなとおり、外地に生活の本拠を有していた者がソ連の参戦ないし終戦により、これを喪失したという事実に着目して支給されるのであるから、かかる法律の趣旨に則り、生活の本拠とは何を指すかを先ず解明しなければならない。しかして、生活の本拠とは、生活の場所的中心であり、生活の実質的関係に基いて、具体的に決定すべきであることは、異論のないところであるが、これは、更に、その成立、継続、変更等について、純客観的な立場から、諸般の事情を参酌して、考察判断さるべきである。けだし、定住の意思等の主観的要素を要件とすると、外部から認識し得ない場合が多く、法律関係の不確定を来たすからである。

(三)  しかして、右のごとき観点に立つて、本件の場合を考察すると、原告は、「退職願を提出したのは、当時内縁関係にあつた女性と正式に婚姻し、現地で生活するためであるから、本邦に帰国後も、現地に戻る意思があり、従つて、生活の本拠は外地にあつた」と主張するのであるが、原告が当時女性と内縁関係にあつたか、同人と同居していたか等については、これを判定するに足る適確な資料はなく、また、退職願提出の動機、現地に戻る意思等は生活の本拠の喪失ないし変更には直接関係のないことである。

(四)  のみならず、原告が本邦に帰国した当時たる昭和二〇年七月下旬、すなわち、太平洋戦争末期における戦況の様相、内地と外地との交通事情等を考察し、かつ、原告の帰国事由は、退職願提出による帰朝命令であつたこと、原告には、当時法的には妻もなく、子供も存しなかつたこと等の客観的諸事実からすれば、一般社会通念として、原告は、終戦直前に本邦へ帰国することによつて、外地における生活の本拠を失つており、従つて、引揚者給付金等支給法第二条第一項第三号の該当者ではないとみるのが相当である。

(五)  更に、同法第二条第一項第三号は、「本邦に滞在中、終戦によつて、………外地へ戻ることができなくなつたもの」と規定して、外地へ戻れなくなつた事由が終戦と相当因果関係がなければならないことを明示しているが、この場合、いつまでに外地へ戻れないかについては、引揚者給付金等支給法施行の日の前日たる昭和三二年三月三一日までと解すべきである。ところで、原告が終戦後外地へ戻ろうとしたことを認むべき資料は、何等存在せず、引続き本邦内に居住して、昭和二二年九月一七日には金田政子と婚姻し、翌年には一子をもうけて、現在に至つているものであり、この点からしても、原告は、右法律所定の引揚者給付金の受給適格者とはいいえないのである。

(六)  以上、要するに、原告の引揚者給付金請求を容れなかつた被告の本件処分は、適法有効である。

(証拠省略)

理由

一、先ず、本件訴訟の経過をみるに、本訴は、当初国を被告として、国(厚生大臣の趣旨と認めるべきである)が昭和三七年六月一四日付をもつてなした原告の不服申立(原告の引揚者給付金請求を却下した被告の処分に対する不服申立)を棄却した裁決の無効確認を求めて、福岡地方裁判所に提起せられたのであるが、同裁判所において、原告の本訴旨は被告を相手方として、原告の引揚者給付金請求を却下した被告の処分の無効確認を求めるにあるとして、昭和三八年三月二八日付決定をもつて、当裁判所に移送せられたところ、原告は、当裁判所における同年五月三一日の口頭弁論期日において、本訴の被告を富山県知事と変更するとともに、請求の趣旨を事実摘示記載請求の趣旨のように変更したものであることが明らかである。

そこで、原告の右被告並びに請求の趣旨の変更につき、考えてみるに、原告が本訴請求の原因として主張する事実の要旨は、「原告は、昭和一五年に大東亜省巡査となり、昭和一九年八月からは山海関領事館警察署に勤務していたが、辞職願を提出した後、帰朝命令を受けて、終戦前に本邦に帰国した。しかし、原告は、当時中国に生活の本拠を有していた者であり、辞職を承認された後、現地に戻る意思を有していたにかかわらず、本邦に滞在中、終戦によつて現地に戻ることができなくなつたものであるから、引揚者給付金等支給法第二条第一項第三号に該当する。従つて、同法第三条に基く原告の引揚者給付金請求を却下した被告の処分、また、これに対する原告の不服申立を棄却した厚生大臣の裁決は、右事実を看過してなしたものであるから、重大かつ明白な瑕疵があり、無効である」というのであつて、起訴当時より変更されていないところである。しかして、本訴は、当初訴訟代理人を委任することなく、原告自ら提起したものであり、なお、被告の処分は、本来厚生大臣に属する権限を委任されてなした国の事務であつて、(引揚者給付金等支給法第二三条、同法施行令第九条)、また、裁決の訴においては、原処分の無効を理由とすることはできないとされているところであるから(行政事件訴訟法第三八条第二項、第一〇条第二項前段)、これらの点を勘案して、本件訴状には、被告として国を表示し、請求の趣旨として裁決の無効確認を掲記されているが、原告の本訴旨は、被告を相手方として、その処分の無効確認を求めるにあるとみてやるべきである。してみれば、右被告並びに請求の趣旨の変更は、いわゆる被告の変更もしくは訴の変更とみるべきでなく、単に、被告の表示を訂正し、もしくは請求の趣旨を更正したとみるのが相当であろう。

たとえ、原告の右被告並びに請求の趣旨の変更がいわゆる被告の任意的変更もしくは訴の変更とみるべきであるとしても、これを許すべきである。もとより、本訴は、無効確認訴訟であつて、取消訴訟と異なり、出訴期間の制限に服しないところから、出訴期間不遵守の救済を目的とする行政事件訴訟法第一五条の準用はないと解すべきである(同法第三八条)。しかし、本件無効確認訴訟の実質的な当事者は、国であつて(行政訴訟法上はともかく)、原告は、その国を相手方としていたものを、厚生大臣より権限の委任を受け、国の機関として処分をなした富山県知事を相手方当事者として変更したものであつて、これを許しても、相手方に対し何等の不利益も与えず、原告が右変更を申立てた口頭弁論期日の呼出により出頭した国の指定代理人は、右変更に異議なく、直ちに被告の指定代理人として弁論をなし、右変更に同意しているところであるから(訴訟の経過に徴して明らかである)、訴訟経済の観点に立つて、これを許容すべきものと考える。また、右被告の変更と同時に、これにともなつてなした請求の趣旨の変更も、請求の基礎に変更がないこと、叙上の説示より明らかであり、その時期よりして、それが訴訟手続を遅滞せしめるものではないから、当然許さるべきものである。なお、右訴の変更は、口頭でなされ、新請求の趣旨等を記載した書面の提出並びに送達はなされていないが、前述のように、被告において異議なく応訴しているところであるから、その瑕疵は、責問権の喪失により、治ゆされたものと解すべきである。

二、次に、原告が本件無効確認の訴えを求める適格を有するか否かについて、考えてみるに、引揚者給付金等支給法第三条によると、給付金を受ける権利の認定は、これを受けようとする者の請求に基いて、厚生大臣が行うとされ、同法施行規則第二条ないし第四条からすると、引揚者給付金等を受けようとする者は、厚生大臣より右受給権利を認定する権限を委任された者に請求書を提出し、その受給権利の認定を受けなければならないこととなつているので、右受給権利の認定がない以上、具体的に引揚者給付金を請求する権利は発生しないものと解すべきであり、本訴においては、原告の右受給権利の認定自体が争われているのである。そうすると、原告としては、具体的に引揚者給付金請求等現在の法律関係に関する訴を提起し、その救済を求めることができないというべきであるから、まさに行政事件訴訟法第三六条にいう「当該処分の存否又はその効力を前提とする現在の法律関係に関する訴えによつて目的を達することができない」場合に該当し、原告は、本件無効確認の訴えの原告適格を有するものというべきである。

三、よつて、進んで原告の本訴請求の当否について、以下判断することとする。

原告が終戦前大東亜省巡査として、山海関領事館警察署に勤務し、帰朝命令により終戦前に本邦に帰国、退職したこと、原告が被告に対し、引揚者給付金等支給法第三条所定の請求をなし、被告が昭和三三年六月二〇日付で、原告の右請求を却下する処分をなしたこと、原告がこれに対して厚生大臣に不服申立をなし、厚生大臣が昭和三七年六月一四日付で、原告の右不服申立を棄却する旨の裁決をなしたことは、当事者間に争いがない。

しかして、原告が引揚者給付金等支給法にいう引揚者に当るか、殊に終戦当時原告の生活の本拠が本邦にあつたか、中国にあつたかが、本訴の第一の争点であるから、この点につき、考えてみるに、成立に争いのない甲第一、二号証、証人塩川清孝の証言によつて真正に成立したものと認める甲第六号証の一ないし三および同第八号証、原告本人尋問の結果および弁論の全趣旨により成立の推認しうる甲第九号証ないし第一一号証、証人塩川清孝の証言、原告本人尋問の結果、ならびに弁論の全趣旨を総合すると、次のような事実が認められる。すなわち、

(1)  原告は、昭和一三年四月ごろ中国に渡り、昭和一五年一月八日大東亜省巡査を拝命して、北京領事館警察署勤務となり、同年三月保定領事館警察署に転勤して、同所で二年間在勤し、その後、威海衛領事館警察署に一年余、柏各荘領事館警察署に一年二月余を勤務し、昭和一九年八月山海関領事館警察署勤務となつて、昭和二〇年七月まで在勤していたこと、

(2)  ところで、原告は、保定に着任後間もなく、同所の料理店笹乃屋で芸妓をしていた中西春枝(当時二一才位)と懇ろになつて、夫婦約束をするに至り、原告が柏各荘へ転勤後、右中西は天津で働くようになつたが、出張の際に立寄つたりして、交際を続け、原告の山海関転勤後は、中西が一ケ月に四日から一〇日位官舎を訪れて、夫婦同様の生活を営むようになつたこと(その間、中西を自由にするため、抱主に同女の前借金二、八〇〇円を支払つている)、

(3)  ところが、当時警察官が結婚する場合、署長の許可を必要とし、しかも、結婚相手の社会的身分関係がやかましくいわれ、芸娼妓や仲居等との結婚は許されなかつたため、原告は、警察官を続ける以上、中西春枝と正式に結婚ができないことや、右中西が警察署に呼出されて原告との事情をきかれたりして、嫌な思いをし、また、当時中国にかなりの知合もあり、警察官をやめても、現地で民間会社に就職する見込もついていたこともあつて、辞職を決意し、昭和二〇年四月ごろ辞職願を提出したこと、

(4)  その後、大東亜省より同年六月一七日付をもつて帰朝命令を受けたので、原告は、夜具や家財道具などを三六個位の荷物に梱包して、山海関領事館警察署の車庫に預け、官舎を後任者のために明けて、帰国したのであるが、原告としては、帰朝命令をうけても、従来の例からして、辞職を慰留されるか、現地における他の任地へ転勤させられる位に思い、辞職が許されるなどとは殆んど考えていなかつたので、所持金約六、〇〇〇円の外、全くの軽装で帰国したこと、

(5)  しかして、同年七月二二日大東亜省に出頭したところ、予想に反して、原告は、辞職願を受理し、同月三一日付で発令する旨の通知を受けたこと(右辞令と旅費は、その後原告の本籍地へ送られた)、

(6)  しかし、原告は、辞職承認の有無にかかわらず、中国へ戻る意思であつたので、帰途暫く郷里の富山市に立寄つて、肉親とのながの再会をなし、中国への渡航切符の入手は困難であつたが、縁故をたどつて、当時の伏木憲兵隊長埜市松に事情を打明け、北鮮向け軍用船への便乗許可を得ていたこと、

(7)  しかるに、同年八月八日のソ連参戦によつて、便乗許可をえた軍用船出航が延期され、八月一五日の終戦を迎えるに至り、以後本邦より海外への渡航がながらく許されなくなり、原告は、再び中国へ戻ることができなくなつたこと、

以上のような事実が認められ、右認定に反する証拠はない。

ところで、いかなる場所をもつて人の生活の本拠と解するかについては、その場所を客観的に生活の中心と認めるべき実質的な社会的生活関係があるかどうかによつて、これを決すべきであるとする見解と、その場所を生活の中心たらしめようとの意思の有無のみによつて、これを決すべきであるとの見解が対立しうるが、生活の本拠か否かは、その人の意思を離れてこれを決しえないけれども、それのみでは足らず、かかる意思を実現した客観的事実の存する場合に、はじめて、その場所に生活の本拠があるものと認めるべきであると解せられる。

これを本件についてみるに、前記認定の事実によつて明らかなごとく、原告には、ながらく内縁関係にあつた女性が中国にいたこと、原告は、その女性との結婚のために、警察官の辞職願を提出し、帰朝命令により帰国したが、家財道具類等は一切中国に置いていること、辞職願を出したものの、これが受理されることは殆んど予想しておらず、たとえ、これが受理せられても、中国で就職する見込があつたこと、事実辞職承認後も、中国へ渡航すべく、真剣な努力をなしていたことが認められるのであるから、主観的にも客観的にも、原告の生活の本拠は、依然として中国、山海関にあつたものと認めるのが相当である。

なお、原告が終戦後引揚者給付金等支給法施行の日の前日までに中国に戻ろうとした事実がないことは、原告も争つていないけれども、終戦によつて、本邦より中国に渡航することは、他の外国以上に極めて困難となつたのであつて、原告が中国渡航の努力をしなかつたのは、むしろ当然のことであるから、これをもつて、原告が中国へ戻ることができなくなつたことと終戦との因果関係は否定しえないところであり、また、成立に争いのない乙第一号証によれば、原告は昭和二二年九月一七日訴外金田政子と婚姻し、一子をもうけていることが認められるが、この点も終戦後の事情であり、原告が終戦当時中国に生活の本拠を有したか、否か、終戦によつてその生活の本拠たる中国に戻ることができなくなつたか、否かを認定する資料とはなしえないといわねばならない。

そうとすれば、原告は、昭和二〇年八月一五日まで引続き六ケ月以上外地に生活の本拠を有していた者で、本邦に滞在中、終戦によつてその生活の本拠を有していた外地へ戻ることができなくなつたものであつて、引揚者給付金等支給法第二条第一項第三号に定める引揚者に該当するというべく、同法第三条に基く引揚者給付金を受ける権利を有するものとしなければならない。

そこで、前記原告の右引揚者給付金請求を却下した被告の処分の効力について、考えてみるに、被告の右却下処分は、原告の終戦時における生活の本拠は本邦内にあり、中国にはなかつたことを理由としてなされたものであること、成立に争のない甲第三号証により明らかであるから、原告の終戦時における生活の本拠を誤認してなされた重大な瑕疵があるものといわねばならない。

しかしながら、原告が引揚者給付金請求のため提出した請求書(甲第一号証)および終戦の際本邦に滞在中であつたことの申立書(甲第二号証)の各記載を検討してみるに、原告が終戦前に帰朝命令によつて単身本邦に帰国し、大東亜省巡査を辞職した記載となつており、当時法律上独身であつた原告の生活の本拠が中国に存したものであることは、右請求書に添附された資料(もと同僚の警察官であつた塩川清孝の証明書等であつて、信憑性に乏しい)、その他係官の調査資料のみによつては、容易に判定しがたい事情にあり、本訴訟において慎重な証拠調の結果、漸く判明しえたところであつて、被告の却下処分の前記瑕疵は、右処分成立の当初より、外形上客観的に明白でなかつたものといわなければならないから、瑕疵は重大であるといいえても、明白であるとはいいえない。

そうとすれば、被告がなした本件引揚者給付金請求却下処分における前示のような原告の生活の本拠誤認の瑕疵は、右処分の取消原因たるにとどまり、処分を当然無効たらしめるものではないといわねばならない。

四、よつて、原告の本件引揚者給付金請求却下処分の無効確認を求める本訴請求は、理由がないとしなければならないので、これを棄却することとし、訴訟費用の負担につき、民事訴訟法第八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 吉田誠吾 古田時博 大山貞雄)

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